8月が嫌いだ。

先日、福山雅治氏がN〇Kのファミリーヒストリーという番組に出ているのを見た。その番組内で東京でデビューした当時の彼のことを当時の作曲家だか音楽プロデューサーだかが話すシーンがあった。話題は福山雅治氏が書いた「PEACE IN THE PARK」という曲の歌詞の話だった。話していた男性が作曲家だか音楽プロデューサーだか忘れてしまったので、ここでは作曲家だったというていで書くが。彼は福山雅治氏の書いた「8月のサイレンが空に突き抜ける頃」という歌詞に当時感心したと話していた。戦時中を生きてきたような、そんな感性を持った彼に才能を感じたんだそうだ。私はこの番組を夕食を作りながら父と共に見ていた。そして、その場面で2人揃って同じことを言った。

「8月って普通にサイレン鳴るからなぁ…」

ここで前提の話をする。私は長崎市内に住む20代前半の若者だ。生まれてからずっと、長崎市内で暮らしている。長崎市の8月はサイレンが鳴るのだ。8月9日11時2分、原爆が投下された時間に1分間のサイレンが鳴るのだ。福山雅治氏が書いたこの歌詞も、タイトルのPEACE IN THE PARKや前後の歌詞から察するに8月に聞くサイレンは原爆のことを思い出させてやるせなくなるよね、という歌詞なのだと思う。戦時中の話をしているのでは恐らくない。私は福山雅治氏本人ではないので、もしかしたら本人は戦時中の気持ちで書いていたのかもしれないが、長崎市に住む人間から見ればどう考えても現代の話をしている。
福山雅治氏は被曝二世、つまり被曝者を親に持つ世代らしい。私の父もそうだ。そして私は被曝者を祖父母に持つ被曝三世である。私は生まれてからずっと被爆地に生きてきた。私の住む街は爆心地から2キロと離れていない場所にある。要するに私の住んでいる地域は当時原爆の被害にあった場所だ。なので、幼い頃から平和教育というものをみっちり受けてきた。まず、私が通っていた小学校には11時2分で止まった時計が、ガラスケースに入るでもなく1階廊下の壁に現役ですよと言わんばかりの佇まいでかけられていた。止まっている時計なのでもちろん現役ではない。原爆の衝撃で止まってしまった、当時の時計だ。私の通っていた小学校は私が通っていた当時、創立135年とかその辺りだった。今は150年近くになっているのでは無いだろうか。そんな古い小学校なので、当時の時計が残っているのだ。小学校も原爆の被害にあった場所なので、平和教育がとにかく盛んだった。8月のその日が近づけば、階段を上がって目の前にある踊り場に当時の被害写真が展示されるようになる。被害にあった街や人々の写真だ。もちろん、目に入れたくない程に悲惨な写真だらけだ。今風に言えば、グロい写真だ。この言い方はとても失礼に当たる上に人間性がどうかしていると思うので私は絶対に使わないが、わかりやすい言い方として今回だけ使わせてもらった。読んでいる方を不快にさせたなら申し訳ないがこのぐらい言わないと想像できない人間もいるのだ。そのぐらいに凄惨な写真が狭い部屋中に展示される。それをまだ7歳ほどの小学一年生から見せられるのだ。大人でも目を逸らしたくなるような写真を見せられるのだ。自分が今いる学校の場所が記載された地図や写真の場所などまで詳しく書かれた展示は酷く実感を持ってその出来事を子供たちに教えてくる。先生方もとても熱心に説明してくれた。私たちが嫌でも理解できるように詳しく説明してくれた。そして8月が近づくと必ず被曝者の方の講話があった。被爆体験を聞くその時間は蒸し暑い体育館に寿司詰めにされて、被曝者の体験を時に写真を見せられながら聞くのだ。学年が上がってくれば平和ウォークと称した、被爆地巡回ツアーに連れていかれる。1日をかけて被爆の痕跡が残る場所を歩いて回るのだ。もちろん、原爆資料館もコースに入っている。学校の展示場より更に詳しい被害状況がその場所にはたくさん展示してある。その平和ウォークは中学校を卒業するまで続く。もちろん中学校にも展示室はある。私は幼い頃から受けたこの平和教育のせいで、8月が大嫌いになった。自分の住む地域、見慣れたはずの場所で起こった事を歳をとる事に理解していくのだ。それがどんなに怖いか、同じ地域に住む人間ならわかると思う。小さい頃の恐怖の刷り込みは大人になっても忘れない。どこに住んでいる人間よりも戦争というものに実感がある。同じような教育を受けている地域ももちろんあると思うのでその方たちはわかる〜と思いながら読んでいただけるとうれしい。

私は高校に進学し、違う地域の学校に行くまで長崎の人間はみんな同じ感情を共有しているのだと思っていた。そうでは無いのだと気付いたのば高校に進学してから友人がなった高校生平和大使というものを知った時だ。現地の学生からは点数稼ぎと呼ばれるこの活動は駅前で核兵器廃絶の署名をもらったり、被曝者に話を聞いて海外で被爆講話をしたりする活動らしい。その活動を知った時、とんでもないものになりたがる人間がいるものだと私は驚いた。まず、自ら被曝者に話を聞きに行ってそれを自分が話すことが幼い頃から植え付けられたそれを思い出して無理であるし、凄惨な写真なんかを自ら展示していくという苦行も無理である。よくよく聞いたら、その活動をしている人の多くは長崎市に住んでいないらしい。そして、原爆についての詳しい話を高校に入って初めて知ったのだという。違う地域と言っても私の通っていた高校は市内からバスで10分で行ける距離だ。大して離れていない。そんな距離でも、既に私と同じ感情では無かった。強烈に8月が憂鬱な、あの感情を共有出来てなんかいなかったのだ。それは大学に入ると更に悪化した。他県から来た人間は8月になんの感情もないのだと言う。街中にある被害を伝える不鮮明な写真付きの石碑も、毎月9日11時2分に流れる音楽も、8月のサイレンにも、なにも思わないらしい。こんなに違うものなのかと、とても驚いた。今となっては、そういうものであると思っているので驚いたりはしない。私は8月がたまらなく嫌いだが、この感情は持っていなければいけないと思っている。

私は普段からTwitterを利用する人間なのだが、Twitterは緩く利用しているためブロックという機能を利用することはほとんどない。しかし去年の8月、私は初めてにも等しいブロック機能を利用した。広島の平和大使が作った、被曝者の日記を元に広島に原爆が投下された8月6日8時15分の1ヶ月前から当日までツイートしていく、というアカウントである。私はその日、いつものようにTwitterを利用していた。8月6日の8時15分に黙祷をし、さぁTwitterで適当にタイムラインでも見るか、とTwitterを開いた時にフォロワーのRTでそのアカウントが回ってきた。当時の日記を元にしているとあって、随分リアルな当時の呟きだった。私は思わず、スマホを投げた。幼い頃に植え付けられたトラウマが刺激されたからだ。それから極力ツイートを見ないようにアカウントを3つ全てブロックし私から見えないようにした。テレビなどの報道はなるべく視線を逸らして自衛できるが、Twitterのタイムラインは流石に身構えていなかった。毎年、8月が近づくとテレビなどの報道ではよく戦争についての番組が放映されるので私はできるだけテレビを見ないようにしている。あのアカウントは当時のことを知らない人間からすれば興味深いものだったのかもしれない。私にはトラウマを刺激するものでしか無かったが。

私は自分の祖父母に当時の話を聞いた事はない。私がその話題が苦手なのもあるが、あの体験をした人に話してくれと求めることがどうしても出来なかったからだ。きっと父もそうだったのだろう。私は2年生になった頃、父に遊びに行くと偽られ原爆資料館に連れていかれたことがある。初めて入るそこで、父の静かな説明を聞きながら恐怖で固まっていたのを覚えている。私は未だにこのことを許していないが、父がこの行動を起こした理由は何となくわかるのだ。父も幼い頃に自らの父、要するに私の祖父からこの場所に連れてこられたことがあるらしい。父が幼かった頃はまだ展示物がガラスケースに入っているということも無かったらしい。生々しくて、とても怖かったと教えてくれた。父も私に恐怖を植え付けたかったのだろう。

私はこの記事で平和教育に文句が言いたかったわけでは無い。少しでも戦争を知らない人に、考えたことの無い人に、現代で起こっても構わないという人に、知って欲しかったのだ。戦争は恐ろしい。言葉にすれば月並みにしか聞こえないが、私は実感を持ってこの言葉を話せる。私の子供にも、同じように伝えていかなければならないと思う。九州は梅雨になった。梅雨が終われば夏が来る。また私の大嫌いな季節が来る。私はまた8月のサイレンを思い出すのだろう。